tbcラジオドラマ「風の声、ひかりの歌」
慶長使節とサン・ファン館
●慶長遣欧使節について(宮城県慶長使節船ミュージアム サン・ファン館HPより)
慶長遣欧使節とはおよそ400年前の1613年、仙台の伊達家当主伊達政宗が仙台領内でのキリスト教布教容認と引換えにノビスパニア(メキシコ)との直接貿易を求めて、イスパニア(スペイン)国王およびローマ教皇のもとに派遣した外交使節です。
使節に選ばれた伊達家家臣支倉常長は、宣教師ルイス・ソテロと共に、仙台領内で建造された洋式帆船サン・ファン・バウティスタ号で太平洋を渡りました。常長はメキシコを経てスペインに至り国王フェリペ3世に謁見、さらにローマに入り教皇パウロ5世に拝謁しました。しかし幕府のキリスト教弾圧などから目的を達することができないまま、支倉常長は7年後に仙台に戻りました。
●支倉常長について(宮城県慶長使節船ミュージアム サン・ファン館HPより)
600石の知行をもつ伊達家家臣。鉄砲、足軽組頭として仕え、文禄の役では朝鮮への航海と異国滞在の経験をもっています。
西洋との直接交渉という大役に抜擢されたのは、使節の役割を遂行する能力を持つとともに、万一不成功に終わった場合でも伊達家に対する問題が大きくならない人選とみられています。また、一度実の父が罪を犯し切腹させられたうえ、常長も追放されていますが、能力を惜しんだ政宗が名誉挽回の機会を与え、使節の大使という大役を任せたともいわれています。
戦国時代を生き、齢40歳を超えた侍は、誰も見たことのない、遥かな異国の地を旅することになります。
●慶長の大津波について(宮城県慶長使節船ミュージアム サン・ファン館HPより)
2011年の東日本大震災のちょうど400年前の1611年12月、慶長三陸地震が発生、東日本大震災の大津波と同規模の慶長大津波が仙台領を襲った記録が残されています。政宗が徳川家康にしたという報告では、仙台領だけでも5000人を超える死者を出したといわれ、仙台藩の正史とされる記録では、1783人の死者を出したと伝えられています。
そしてこの大津波からわずか2週間後、政宗は造船と慶長使節派遣の構想を明らかにし、その2年後、サン・ファン・バウティスタは仙台領月浦から太平洋を渡るべく出帆しました。
このような事実をふまえ、改めて慶長使節派遣の意義を問い直したとき、この計画には大きな災害から立ち直るための強い意志が託されていたのではないか、という解釈が生まれます。
政宗と常長が目指した海外との貿易は、物資の流通のみで終わるのではなく、文化や技術・情報・人の交流ももたらしてくれます。そしてそれは復興の基盤になるのです。
●サン・ファン・バウティスタ号の造船出航地について
現在サン・ファン・バウティスタ号が出帆した場所は石巻市牡鹿半島の 月浦が定説になっていますが、同じ石巻市の雄勝町が出帆した地とする説 もあります。雄勝湾は天然の良港であり、伝承も残っていることから雄勝の人たちもサン・ファン・バウティスタ号に強い思いを持っています。
●宮城県慶長使節船ミュージアム「サン・ファン館」について
今から約400年前に慶長使節ら一行を乗せ、太平洋を往復した洋式帆船「サン・ファン・バウティスタ」の実物大の復元船を展示し、慶長使節の歴史や大航海時代の帆船文化の紹介をするために、1996年に開館した博物館です。サン・ファン館は牡鹿半島と太平洋を一望できる景勝地の高台にあり、展示室やシアターがある展望棟と復元船が浮かぶドック棟があります。東日本大震災では津波でドック棟が大きな被害を受けましたが、復元船は大津波にもまれながらも耐えかろうじて流出を逃れました。
強風によるマストの損傷などの困難もありましたが、休館から2年8か月後の2013年11月、国内外の支援のもと再開館しました。
しかし、復元船「サン・ファン・バウティスタ」は、船体の老朽化により維持が困難になり、多くの人たちに惜しまれながらも2021年3月で展示公開を終了することになりました。
※復元船「サン・ファン・バウティスタ」号の公開について、詳しくは「サン・ファン館」のホームページをご覧ください。

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