ど〜なの?DJ

皆さんからの素朴な疑問・質問にお答えするべく
DJ淳吾が調査・奮闘するコーナー。
なんでも聞いてください!お待ちしています。


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[平成25年1月23日(水)放送]
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「安東理紗の1日警察署長」

2013年が明けて間もない1月10日。
「110番の日」に合わせて行なわれた安東ANの1日警察署長に密着しました。
はたして、きちんと仕事ができたのでしょうか。そして、その内容とは?

お世話になったのは、太白区と若林区を管轄する仙台南署。
安東AN、緊張の面持ちでまずは阿部署長から辞令を頂くところからスタート。
署長室では何と、仙台南署幹部の皆さんが直々に出迎えて下さいました。

辞令を頂いたばかりの安東AN、いや安東署長。
調子に乗り、「敬礼なんかしてもらえますか?」っておいおい。幹部の皆さん、たいへん失礼いたしました。

何はともあれ、仙台南署は月およそ1,500件の110番通報を受け付ける、県内一忙しい警察署。署長の責任も重大なもの。
まずは署員への訓示で、日頃の労いと、今後ますますの業務への邁進を語りかけました。時おり噛み噛みしながら(笑)。

さらに逮捕術(なぜか病み上がりの私が挑戦。署長は「視察」という名の高見の見物です)の訓練を終えて、昼食タイムへ。
1日署長とともに、署員の皆さんと懇談です。

 僕「警察のお昼はカツ丼ぢゃないんですね」
安東「我々は犯人ぢゃないからぢゃないですか?」
署員「ドラマの見過ぎです」

そんな会話で和みつつお話を伺うと、多くの警察官が年末年始もなく昼夜も問わず、日夜我々の安全を守ってくれているという事をあらためて実感します。
中には、山形県警や警視庁など、他の都道府県から震災支援のため宮城に滞在している警察官もいました。頭が下がる思いでした。

1日署長のお仕事……締めくくりは広報活動です。
110番の日という事もあり、太白区内のショッピングモールで正しい110番のかけ方や、不必要な通報を控えて欲しい事などを、署員とともに呼びかけました。

1日署長のお仕事、仙台南署の柴村地域課長からは90点の採点を頂きました。
緊張でくたびれた様子の安東AN。1日署長、お疲れ様でした!



[平成25年1月9日(水)放送]
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「亘理町で十二支を発見!?」

それは2012年11月のある日、亘理町での取材を終えて帰る車の中での出来事でした。
カーナビの画面で不思議な地名を見つけてしまったんですね。子…丑…寅…卯…何で十二支が?今年の干支である「巳」も、あります!

その時は何となくそのままにしてしまったものの、新年を迎えるにあたりどうしても気になったので、調べてみる事にしました。

カーナビを頼りに現場と思われる場所に降り立ってみましたが、田んぼが広がるばかりで何もありません。
遠くのほうに集落は見えますが、標識や住所表示みたいなものはありません。
何とか住宅を訪ねて住民に聞いてみますが、今まさにこの場所のはずなのに、知っている人が見つかりません。

唯一、お年寄りの女性が「ここが甲で、北が寅……」と、ヒントのようなものを下さいました。一体どういう事なのでしょうか?
詳しいお話を、亘理町の歴史や方言などを研究している郷土史家の鈴木光範さんに聞く事ができました。

鈴木さんによると、不思議な十二支の地名の正体は、亘理町逢隈 蕨(わらび)地区に鎌倉時代からあるとされる薬師堂を中心として方位を表したものだといいます。

十二支は古代中国で生まれ、初めは暦を、時代が下ると時刻や方角を表すのにも用いられました。
明治39年に冷害があった際、当時の蕨村が農民に金銭的補償をするため耕地整理を行ない、薬師堂の周りの田んぼに番号を振る要領で十二の動物をあてがったというわけです。

さらに、余った区画には天(てん)・地(ち)・人(じん)、甲・乙などを当てました。
地元の女性も話していたとおり地図を見ると、甲の北は寅となっていました。

しかし、それにしてもどうして地元の方が十二支の地名をあまりご存じないのでしょう?
この点、大いに疑問に感じたのですが、鈴木さんによると「田んぼの住所だから使わないので、分からないのではないか」というお答えでした。
たしかに田んぼに振った地名ですから、そこへ郵便を出す用事もありませんし……、必要ないから忘れられてしまうとは、いやはや何とも。

ちなみに鈴木先生によると、蕨地区46世帯のうちわずかに13%の世帯で十二支が住居表示として今も使われているほかは、行政上の書類だけで残っているそうです。

亘理町の歴史や民俗に関する資料を集めた「悠里館」。
明治から大正、昭和にかけての町の地図や土地台帳といった史料が残されていました。

明治19年の地図では、当時、蕨村と呼ばれていた現在の亘理町逢隈周辺に十二支の地名は見つかりません。
ところが時代がくだり大正6年から使われている土地台帳には、干支の文字が……。
亘理町によると、これらの住所表記は今も使われていて、こうした行政上の書類などに見られるというわけです。

十二支の地名の謎、お分かり頂けましたか?
全国的にもこうした地名があるのか、鈴木先生に聞いてみたが「分からない」とのお答えでした。ただ「探してみれば見つかるかも知れません」とのお話でした。



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