かつて津波太郎(田老)とまでいわれた、岩手県宮古市田老地区。
“万里の長城”と呼ばれた防潮堤に囲まれた街で聞こえてくるのは
「逃げる意識がないと守れない」。
たろう観光ホテルの映像、避難道の太陽光パネル、交差点の隅切り…
“防災の街・田老”の住民に息づくものを未来への懸け橋に―。
※ラジオ番組音声は以下からお聴きいただけます。
津波で破壊された第二防潮堤。すさまじい津波の威力が、そのままの形で残すことにより明確に見えてくる。
防潮堤から野球場を見下ろす。被災後、近くに自宅を再建した住民は「平地再建しかなかった。商売は高台では成り立たない」と即断したという。
たろう観光ホテル6階の客室。津波襲来時の映像を今の光景と対比して見ることが出来る。テレビ台は元々客室にあったテーブルを再利用している。
「新しい水門を作っています。三陸復興」と工事が進む。近くに自宅を再建した住民は「後悔している、また津波は来るのだから」と語った。
震災時の映像を集めDVDを作るなど、津波防災の啓蒙を積極的に行っている津田時計写真店。
理容タカハシの高橋さんは被災後プレハブで理髪店を再開、奥さんは高台移転した団地で同じく理髪店を営む。取材中おもむろに水道の蛇口をひねり、あの音を聴かせてくれた。
三陸鉄道新田老駅は2020年5月に開業。高齢化・過疎化で「田老にはいずれ人がいなくなるのでは?」と口にする人もいるが、中心部に近い駅の設置で活性化を図る。
名物!善助屋食堂の「どんこ唐揚げ丼」。田老地区の中心、道の駅に隣接する。田老の食堂はどこもコロナウイルス感染対策がしっかりされている。
防潮堤を登る前、「学ぶ防災ガイド」の元田さんは冷静かつわかりやすく。被災後「そば」が栽培されているという近くの農地は雪で覆われていた。
「野球場の完成で元気な子どもの声が町の中心から聞こえるようになり、災害の辛さの中、明かりをともしてくれた。」と元田さん。
元田さん、自分なりの考えも交えながら防潮堤の上で多くのことを話す。「私は防潮堤は必要と思う。故人を故郷に返すためにも」
津波遺構「たろう観光ホテル」の1階部分。4階まで浸水したが基礎と構造体がしっかりしていたため、この形で残すことが出来た。
「地震がおきたら津波に注意」震災前からたろう観光ホテルには貼られていた。
たろう観光ホテルでかつて使われていたエレベーター。今でも動きそうに見えるが、中身は空っぽ。
震災後、高台移転のために切り拓かれた三王団地。高齢者が中心だが、ローンを組んで大きな家を建てる人が多いと言う。
海嘯(津波)記念碑「地震が来たらここで1時間我慢」「ここより高いところに逃げろ」…昭和8年の大津波の後、すでにこれらのことが刻まれていた。
震災後、高台移転した大棒さん。「津波は6メートルと言ってたけれど、防潮堤10メートルだから大丈夫かな」「もう来てるよ!そこにいたら追いつかれるよ!」後ろを振り返ったらそこまで来ていたという。
〒027-0323
岩手県宮古市田老字野原80番地1
〒027-0306
岩手県宮古市田老字川向 地内
▼施設に関する窓口
学ぶ防災ガイド
TEL:0193-77-3305
▼公式サイト
岩手県宮古市 公式ホームページ「たろう観光ホテル」
東日本大震災の発生からもうすぐ10年。今回の取材で、震災の記憶を次につなぐためにも重要となる「震災遺構」が伝えてくれることを目の当たりにしてきました。
訪れたのは、仙台から車で4時間ほどのところにある、岩手県宮古市田老地区。震災の津波で行方不明の方を含め181人の方が犠牲となりました。
田老は震災後の報道で見聞きしていましたが実際に足を踏み入れたのは初めて。田老でも珍しい大雪に見舞われた厳しい寒さの日でしたが、なんと言っても、地元の皆さんの温かさをとても強く感じました。宮城から訪れた初めて会う私たちにも、故郷田老のこと、震災の経験、そこから何を感じたか、次に伝えたいこと…マイクを向けた皆さんそれぞれが真摯に丁寧にご自身の言葉で話してくださるのが印象的でした。皆さんが共通しておっしゃっていた「田老の津波の歴史」。明治、昭和、そして東日本大震災と3度も津波に襲われた田老地区の皆さんは全国を見渡してみても防災への意識や日ごろからの避難の意識が非常に高いものがあります。
一方で、防潮堤や避難場所の確保などが整っていたことによる「大丈夫だ」という意識もあったかもしれない、とも語っていました。
田老の高台の地区に集団移転した大棒レオ子さんは、震災からの避難生活の体験やそこから得た教訓などを地元の中学生たちに語り部として講演する活動も続けています。子ども達からは避難生活で大変だったことや、震災の時のことについて多く質問が寄せられるということですがその度に繰り返し「震災のことを忘れないでね」と子供たちに呼びかけているそうです。仮設住宅住まいの時から周りのお母さん方と着物をリメイクして小物やバッグなどを作る活動を高台移転後も続けていらっしゃり、取材の日も近所のお母さん方と作業をしていました。地域のつながりをモノづくりを通して続け、全国各地や世界の方たちに作品が愛用されています。それも震災を「忘れない姿」の1つだと感じました。
学ぶ防災ガイドの元田久美子さんは、防潮堤の上から見える田老の街並み、そして田老観光ホテルの震災当日のこと、ご自身の被災のこと…様々お話いただきました。冷静な語り口の中に温かさが常に感じられ、「たった一つの命を守るためにできること」を語り部ツアーを通して教えてくれました。
元田さんがツアーの最後に言っていた、「震災は忘れた頃に来るんじゃない、人が忘れるから災害がくる」という言葉。忘れないためにできる伝承・教育・訓練、そして言葉では伝えきれないものを目に見えるもの、聞こえるもので伝えていく。震災遺構がある意味を改めて感じた取材となりました。