90人の命を守り抜いた小学校は、宮城県山元町中浜地区に立つ。
“見て”“感じて”“考える”ことを意識して整備された小学校は
すっかり景色を変えてしまった故郷から
再び発信するために動き出した。
※ラジオ番組音声は以下からお聴きいただけます。
当時の児童59人のうち52人が避難、住民・教諭合わせて90人が屋上へ避難、全員がこの階段を上った。
震災遺構中浜小学校。1989年に建て替えられた校舎は、敷地全体が2メートルかさ上げされ、津波・高潮対策が事前にされていた。
モニュメント「3月11日の時計」について話す八鍬さん。1クラス全員が見学できるような大きさ(直径8メートル)を意識して作られたという。
山元町の八鍬さんと収録開始。震災遺構中浜小の企画から携わっており、「見せる」「感じさせる」遺構の細部を語ってくれた。
被災した状況をなるべくそのまま見せたいという意向のもと、目立たないように安全対策も施されてる。
2階の資料室から、子どもたちも知らなかったという急で狭い階段を上ると、屋上に出る。海までは400メートルほどの距離。
防潮堤、その手前には再生を図っている防潮林が見える。津波は屋上の上空5メートルまでしぶきを上げたという。
地域の住民が学校がやっていない時間でも逃げ込めるように作られた外階段。校舎内の階段ががれきで使用できなかったことから、この階段を使って救助のヘリコプターに乗り込んだ。
「3月11日の日時計」の方位盤。過去に宮城県内外を襲った地震の方角と距離を記している。災害は何度も訪れるというメッセージ。
住民にも愛されたという中浜小学校の校舎は壁面のレリーフも特徴的だ。海の恵みと松林が表されている。
山元町立山下小学校6年生は見学した感想のほか、山元町の好きなところも教えてくれた。
中浜小1年生の担任だった門間裕子さんは、こどもたちや周辺住民とともに震災当夜この屋上倉庫で過ごした。
屋上倉庫は当時の児童たちも知らない部屋。校長先生は「何かあったらここに」と心に秘めていたという。
やまもと夢いちごの郷は、JR坂元駅前に2019年にオープン。人口減少が続く坂元地区の明るい話題だ。
〒989-2111
宮城県亘理郡山元町坂元字久根22番地2
▼施設に関する窓口
山元町教育委員会生涯学習課
TEL:0223-36-8948
▼公式サイト
宮城県亘理郡山元町 公式ホームページ「震災遺構中浜小学校」
3.11伝承ロード。2回目は、宮城県山元町にある震災遺構「中浜小学校」を訪ねました。去年9月に震災遺構として一般開放されました。当時の児童や保護者、地域の住民の命を守った校舎に足を踏み入れると、津波の被害の衝撃と同時に、あの日の子供達、先生方の息遣いや表情が見えてくるような気がしました。
学校内を案内してくださった山元町の八鍬智浩さん。そもそも中浜小が津波などを想定して敷地ごとかさ上げして建設されていたこと、また外階段を設け、地域住民も災害時に避難できるように設計されていたことなど、校舎の外からも防災への取り組みがなされていたことなど丁寧に教えてくださいました。また、今回の企画・展示に携わるにあたっては、関係者で保存方法や活用法を何度も意見交換されたことも知り、津波の痕跡をなるべくありのまま残しながら見学施設としての安全性も確保するための保存や管理の努力がなされているんだなという部分を随所に感じました。
やはり印象深かったのは90人が津波の更新情報を元に避難することを決めた屋上の倉庫。学芸会の衣装や道具などが保管されていたスペースに90人が身を寄せます。先生方の機転や、地域の方々の協力、子ども同士でも高学年の児童が下級生を気遣う様子が見られるなど、中浜小が学年の壁を越え、地域住民との交流も盛んだったからこそ、みんなで乗り越えようと思える時間だったのだろうと想像できました。この日ボランティアガイドとしてお話を伺った当時1年生の担任だった門間裕子さんは、自分自身も生まれ育った山元町の景色が一変したことの衝撃、子供達を守ることの責任感、そして今震災遺構として語り部を行うことへの思いなど短い時間の中でも柔らかな口調から地元への強い思いを感じました。
震災遺構中浜小学校はすでに全国各地から多くの見学者や訪れていて、この日も町内の小学生が見学する姿が見られました。山元町立山下小学校6年生は、マイクを向けると、見学を通して改めて震災について考えたこと、当時まだ2、3歳だったけれど津波や地震の記憶が断片的にですが残っていることなども冷静に話してくれました。何よりも、子供達も大人達も地元山元町の好きなところを即座に答えてくれる姿に地域への愛情を感じました。
震災の記憶を語り継ぐ施設として動き始めた震災遺構中浜小学校。防災教育の観点からも全国各地の教育関係者はもちろん、多くの人に訪れてほしいと感じた取材でした。