地震、津波、火事、さらに原発事故という
未曽有の複合災害に見舞われた福島県いわき市。
温暖で美しい海岸線が南北に続く浜通り南部の都市は、
多くの犠牲者を出し、避難する者、避難して来る者と、
複雑な環境の中で復興を見つめている。
※ラジオ番組音声は以下からお聴きいただけます。
整備された約7メートルの防潮堤、10メートルの防災緑地の内側に、いわき震災伝承みらい館は建っている。
いわき震災伝承みらい館では、いわき市内各地区の震災前後の変遷を多数の写真で確認することが出来る。
3月11日当日の午前中に卒業式だった豊間中の黒板実物。歓びに溢れたコメントは、震災前の日常を伝えている。
豊間中の体育館に置かれていた「奇跡のピアノ」。音が出る状態への修復には、関係者の並々ならぬ努力があった。
いわき震災伝承みらい館の武田真一さん。原発事故の影響で、いわき市はガソリンの供給も敬遠され滞ったという。
「このホールの天井の高さが5メートル。津波は5メートルも15メートルも避難が必要なのは同じなのです」と武田さん。
語り部の大谷慶一さんは「津波の高さを平均値で言うのは誤解を招く、私は最も高い高さを使う。この地区を襲った津波は9メートル」と言う。
大谷さんは住民を苦しめることにもなった海を見つめながら語った。「私は海まで見に行った。絶対にやってはいけないこと」
塩屋埼灯台はいわき市薄磯訪問の際はぜひ立ち寄って欲しいスポット。震災を何度も乗り越え、現在は2代目。
全国にある「のぼれる灯台」のうちの1つ、塩屋埼灯台最上部から望む。いわき震災伝承みらい館からすぐ。
近づくと美空ひばりさんの「みだれ髪」が流れる石碑。昭和の歌姫の想い出を胸に、命日の6月には全国からファンが集まるという。
人気の水族館、アクアマリンふくしまも震災伝承施設の1つ。電気系統が壊滅し多くの飼育生物を失った被害から、見事に立ち直った。
久之浜・大久地区観光マップの看板。すでに一部は撤去され、完全撤退が決まっている洋上風力発電も描かれている。
久之浜漁港の裏に整備された避難階段。地形の関係か、久之浜の港湾施設は津波被害が比較的抑えられた。
久之浜地区に住む阿部忠直さん。地域の被災状況と原発事故での住民の苦悩を語る。「避難していた最中に、窃盗団がテレビを盗み出して行った」
津波の被害から免れた稲荷神社・秋葉神社(久之浜)。周辺の建物の多くは跡形もなくなったが、この神社は奇跡的に原型をとどめた。
3回目に訪れたのは、福島県いわき市薄磯地区です。車で薄磯地区を走っているとまず目に飛び込んできたのは、あまりに広く大きな「海」でした。震災後大きくかさ上げし道路は整備され、住民の皆さんの今の住まいからは離れているとはいえ、それでも波打ち際に寄せる波の音や潮の香り…常に「海」と共に過ごしてきたのだと降り立って初めて感じました。この日も朝から近所の方が散歩に訪れていたり、保育園の子供達がお散歩で海を眺めていました。
去年開館したばかりの「いわき震災伝承みらい館」は、1つのフロアにいわき市の震災の被害、復興に向けての動きが非常に見やすくわかりやすく展示されていました。パネルや音声、映像など地元以外の来館者にも理解してもらえるようにという工夫を随所に感じました。案内してくれたのは武田真一さん。ご自身も自宅が大きな地震の被害に遭いながらも市の職員の一人として避難所の名簿作成を始めとした運営でめまぐるしい日々を送っていた当時のお話が印象的でした。
また今回は、お2人の語り部ガイドの方にもお話を伺いました。地震、津波、火災、そして原発事故と一度に大きな被害に見舞われた久之浜にお住まいの阿部忠直さんは、避難所の取りまとめ役として同じ地区の皆さんのケアもしながら、市の警察の捜査にも地元をよく知る1人として協力したりと避難所と被災現場の往復の日々だった当時を話してくださいました。津波の直後に大きな火災の被害にもあった久之浜地区は、時間の経過と共に原発事故の憶測も含めた情報が錯綜し、避難住民の皆さんがどれだけ不安に駆られたのか、いかに正しい情報を迅速に伝えるかが大切かを阿部さんの話から思い知らされました。
そして、薄磯地区の高台にお住まいの大谷慶一さん。津波から命がけの避難の経験をその目で耳で感じたそのままを話してくださいました。生まれも育ちも薄磯で、地理はもちろん地元の皆さん1人1人の顔まで知り尽くしていた大谷さん。でも、あの東日本大震災の地震が起きたあと、「海を見に行く」という行動をとった自分。地震発生から津波が押し寄せるまでの分刻みでの大谷さんの経験の描写に瞬きを忘れるほど聞き入りました。全て克明に覚えていらっしゃるのだなと話を聞いていると、途中大谷さんが「記憶は断片的だ」とおっしゃった時、ハッとしました。自分自身のこと、そしてあの時その場に居合わせた人達の生死に関わる被災経験を心にとどめておくことは、非常につらいことであることに改めて気づかされました。
本編の中で大谷さんがおっしゃっていたように救えなかった命があったこと、そのことを誰にも話せない時期があったこと、心許す友人に震災からしばらくたってようやく「話す」ことができたこと。その時、心に背負っていた重い重い何かがストンと抜けていった感覚があったこと、そして今「生きている」から責任を持って「逃げないといけないと伝える」ということ。大谷さんの紡ぐ言葉1つ1つに、命への責任を感じました。取材を終えてふと顔を上げると高台の場所からもいわきの海が見えました。こんなに身近な存在だからこそ、その怖さと大切さを同時に感じる海なのだと感じた1日でした。