東日本大震災から10年「3.11伝承ロードをめぐる」

取材後記

岩手県大船渡市

その日、津波が押し寄せた時、会社に取り残されてしまった。
屋上に避難し、水位が下がったタイミングを見計らって高台に向かって泳ぎ出した。
決死の脱出で三陸鉄道の線路を伝い夜遅く自宅近くへたどり着く。
翌朝、家族全員の安否を確認すると、すぐにガレキで塞がれた道路を残された重機を使って開き始めた。
津波に囲まれ九死に一生を得た建設関係者の証言を聞いた。

(株)小松組

ナビゲーター:宮田敬子

※ラジオ番組音声は以下からお聴きいただけます。

取材後記

ナビゲーター
宮田敬子

「今でもすごく嫌な音として残ってるんです…」津波の中で木材がぶつかり合う音を思い返し、そう口にした小松さん。押し寄せる津波の中では物が壊れる音、何かが建物にぶつかる音、そして水が激しく流れる音、様々な音があったそうです。どんなに恐ろしい状況だったか、その気持ちを知ることはできませんが、小松さんのお話からは思い込みを捨てて、避難することの大切さが力強く伝わってきました。

小松さんからお話を伺った後に私たちが向かったのが、現在の大船渡市防災学習館。震災当時は「漁村センター」という名称で、赤崎小学校のすぐ隣にあり、子供たちもこの場所まで坂を駆け上って避難してきたと言います。

実は小松さんのお子さんも、こちらに避難して一夜を過ごしました。海抜は10mほどあるそうですが、震災当時、周囲は波に囲まれ、大人たちが子供を屋根の上に誘導し守ったそうです。建物は浸水を免れ、震災後300人以上が避難生活を送ったこの場所は、現在は防災への備えの大切さを伝える防災学習館になっています。この場所に避難した住民は、揺れが落ち着くと、すぐに今後どのように行動するか話し合い、その後も迅速に対応が進んだと言います。

なぜそんなことができたのか。それは日頃からの避難訓練の賜物でした。掲示された資料の中には、地域の避難訓練への参加世帯の割合を示す棒グラフがあります。平成8年は50%を少し超えるくらいでしたが、平成22年には100%を達成しています。避難訓練では数年ごとに、防災ザックやヘルメット、救急品を支給していて、そうしたことが参加率のアップにつながっていたそうです。

また住民同士の声がけも準備されていました。平成22年、震災の一年前に作成された「要支援者支援マップ」では、寝たきりの方、79歳以上の一人暮らし世帯など、災害の時に声がけが必要な世帯を地図で色分けし、隣の人が声がけをするよう書かれています。この声がけは震災の時に実施され、避難するきっかけを作ったそうです。そして震災後は語り継ぐことも大切にしています。

赤崎地区の自主防災組織連合会では、当時の様子を伝える冊子も作製しました。その中には「(3月12日)午前中小松組のバックホーが動き始めた。(中略)がれきをかき分け前へ前へと進んだ。そして午後早くには赤崎小学校前まで行きついた。漁村センターへ避難していた小学生の迎えも可能となった」と書かれています。小松さんたちが会社を挙げて街を何とかしたいと思った強い思いは、街の人たちにも記憶され、次の世代へとつながっていきます。

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